母のためのアドラー心理学【嫌われる勇気】

あなたは幸せですか?
同じ質問を自問自答・考える葦(あし)です。

2013年に発売され大ヒット本となった“嫌われる勇気ーーー自己啓発の源流「アドラー」の教え」岸見一郎・古賀史健(著)”を読み、母の立場で今から活かせる行動と心理を主観でまとめた備忘録です。

【原因論】から【目的論】へ

原因論とは水をやらなかったから花が枯れた、というような分かりやすい理論である。
例えば引きこもりの場合「不安(原因)だから外に出ない」ということになる。


しかし目的論は全く逆の立場をとる。「外に出ない(目的)」のために「不安(原因)」を作り出している。
ーーー「社会活動できないのは子育ての制約があるからだ。」
もっと言えば「不幸(目的)」のために「満たされない感覚(原因)」を作り出している。
「現状に甘んじること=悪くはない+楽である(目的)」のために「不満はあれど不可抗力(原因)」なのだと嘆くだけで変わろうとしない。
それは勇気が足りないためだ。と厳しく指摘する。
しかし、目的論の視点から見れば現状は自分の力で変え得るのだという事ができる。

最良の敵は良である

「7つの習慣」スティーブン・R.コヴィー(著)

では、幸せでないと感じているなら、そのままで良いのですか?
→良いはずがない。
しかし不幸を選んでいるのは自分である。

大切なのはなにが与えられているかではなく与えられたものをどう使うかである。
これまでの人生になにがあったとしても、今後の人生をどう生きるかについてなんの影響もない。

嫌われる勇気ーーー自己啓発の源流「アドラー」の教え 岸見一郎・古賀史健(著)

全ての悩みは対人関係

自分を好きになれないのは「好きにならないでおこう」と毎日決心しているから。
対人関係の中で他者から嫌われ傷つくことに過剰に恐れているから。
内面の悩みなど存在せず全ては対人関係の悩みである。
劣等感は客観的な事実ではなく主観的な解釈である。

○優越性の追求・・・赤ちゃんが立って歩きたい、言葉を喋り意思疎通したい
○劣等感・・・(他者との比較ではなく)理想に達していない自分に対し劣っているように感じる「学力がないからたくさん勉強する」
×劣等コンプレックス・・・「学力がないから成功できない」見せかけの因果
×優越コンプレックス・・・「学力さえあれば成功できる」空威張り

不幸を武器に使っているとその人は永遠に不幸を必要とする。

嫌われる勇気ーーー自己啓発の源流「アドラー」の教え 岸見一郎・古賀史健(著)

過去は変えられる?変えられない?

過去が

  • 秀でたものがない
  • 若い頃に極めたものがない
  • 結婚したから
  • 子供がいるから
  • 拘束されるから
  • 不自由だから
  • 何も生み出していないから
  • 何もなし得ていないから

こうだからといって、未来もそうと決めなくていいだろう?

チャンスを掴む人は

  • 待ち構えてる
  • すでにできている
  • 準備している
  • 準備自体も目的である
  • すでに幸せである

過去の出来事にどのような意味づけをするかは「今のあなた」に与えられた課題

嫌われる勇気ーーー自己啓発の源流「アドラー」の教え 岸見一郎・古賀史健(著)

つまり、事実は変えることができないが、意味づけを変えることはできる。

直面せざるを得ない人生のタスク【仕事】【交友】【愛】距離と深さ別

対人関係の中で「私は正しいのだ」と確信した瞬間すでに権力争いに足を踏み入れている。

嫌われる勇気ーーー自己啓発の源流「アドラー」の教え 岸見一郎・古賀史健(著)

自分が正しいと思うだけで完結し、他人を屈服させる必要はない。

行動自立すること心理私には能力があるという意識
社会と調和して暮らせること人々は私の仲間であるという意識

承認欲求の否定=課題の分離。他者の期待など満たす必要がない。

子供が勉強しない【放任】ではなく【見守る】

見守るとは「本人の課題であることを伝え、援助の用意があることを伝えておく」こと。
ある国のことわざ「馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を呑ませることはできない」。
まずこれは誰の課題かを考える。他者の課題には介入せず、自分の課題には誰一人として介入させない。

承認欲求は自己中心的で不自由

自分がどうありたいか他人の課題
貫かないあらゆる人に嫌われない不自由で自分にも他人にも嘘をついている
貫く一部の人に嫌われる自由である

承認欲求に支配されていると「他者は自分のことをどう見るだろうか」と自己を中心的に見る。

わたしは世界の中心に君臨しているのではない→共同体の一部で積極的にコミットすべき→人生のタスクに立ち向かう→わたしは相手に何を与えられるか、を考えるのみ*1対人関係で困った時はより大きな共同体の声を聴け

「わたし」も「あなた」も対等な人間。理不尽な要求を突きつけられたのなら、正面から異を唱えて構わない*2
それで崩れるくらいの関係なら捨てて構わない。
関係が崩れることだけを恐れて生きるのは他者のために生きる不自由な生き方。
諦め、タスクの放棄を選んでいるのはいつも自分である。

*1と*2を両立するには?常に「課題の分離」を意識する必要がありそうだ。

子育てにおいて褒めても叱ってもいけない

奥さんが旦那さんに家事を手伝ってもらったとして「お手伝いできて偉いわね」と言うか?
褒めることも叱ることも「アメかムチか」という違いだけで背景にあるのはどちらも「操作」が目的である。何人とも操作しようとするな*3
縦ではなく横の関係を結ぶ。

縦の関係横の関係
劣等感を生む「同じではないが対等」
劣等感すら生まないから劣等コンプレックスにならない
介入を生む勇気づけ

人は自分に価値があると思えた時にだけ勇気が持てる。
価値とは人から感謝された時・共同体にとって有益になのだと思えた時。
「評価」ではなく自分の主観によって「他者に貢献できている」と思えること。
他人が協力的であるかは関係なく、わたしがはじめるべきだ。

共同体感覚【自己受容】

自己受容とは無条件な自己肯定とは違い、肯定的な諦めである。

神よ願わくばわたしに変えることのできない物事を受けいれる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ

スローターハウス5 カート・ヴォネガット・ジュニア(著)

ここにも勇気という言葉が出てくる。

共同体感覚【他者信頼】信頼と信用の違い

信用条件付き
信頼無条件
懐疑信頼の反対語

「無条件に信頼しても裏切られるだけだ」というのは決めつけであり裏切るかどうかは他者の課題である。根幹には懐疑があるとそれは伝染する。
では、あなたは?裏切っても裏切っても自分を信頼してくれる人を裏切り続けることができるか?おそらくできない。
では他者は?しかし、かといって他者はどうかわからない。
わたしがどうするかだけ考える。まずわたしから根幹に信頼を据える。

共同体感覚【他者貢献】食器洗い

他者貢献とは自己犠牲ではない。
例えば家で夕飯が終わり、家族は各々自由な時間を過ごしている。そんな中、母であるわたしだけ食器洗いをし、誰も手伝ってくれない。
この時「他者が何をしてくれるか」ではなく、「わたしが他者に何をできるか」を考え実践する。
鬼の形相より鼻歌交じりに。その方が家族も手伝いにやってくるかもしれない。期待するのは違うが「そういう雰囲気を作る」という事がわたしができる事なのだ。
他者は敵ではなく共同体の仲間だと考えられたら、わたしは共同体の一部なのだと考えられたら、貢献にも偽善にもならない。

共同体感覚の心理と行動

行動自立する事→自己受容←心理わたしには能力があるという意識
社会と調和して
暮らせる事
→他者信頼←人々はわたしの仲間であるという意識
→他者貢献←

幸せとは貢献感である

人はいま、この瞬間から幸福になる事ができます。
しかしそうできない人はいつまでも幸福になることができません。

オスカー・クリステンセン

幸福とはすなわち貢献感である。承認欲求からくるものではなく自分の主観で感じる貢献感。

普通であることの勇気

「特別な存在」を目指す者は、他者の注目を集め「普通」から脱し、特別良く(難易度が高い)、もしくは悪くあろう(安易な優位性)とする。
普通から脱すること(登頂)が目的になっているから、いつまでも(登山中)幸せになれない。

人生は線(物語)ではなく点(刹那)の連続なのだ。
われわれは「いま、ここ」にしか生きることができない。
計画的な人生などそれが必要か不必要か以前に不可能。
「いま、ここ」が充実していれば良い。
旅やダンスのように過程そのものを結果として見なす。
そしていつの間にか成して(旅であれば目的地に到着して)しまうものなのだ。

いま、ここに強烈なスポットライトを当てる。
ありもしない過去、未来にぼんやり光を当ててわかったようになっていてはいけない。
物語が必要なくなる・・・確かに?過去の原因みたいなものに縛られなくなる。
今できることを真剣かつ丁寧にやっていくこと。

例えば大学へ行きたいな、と思いながら勉強しないのは虚。
数式を解く・単語を覚える、つまり旅に出る。今日できたことがある。今日という1日はそのためにあった。遠い受験の日のための1日ではない。
どこに到着したのかではなくどう生きたのか、その刹那を見ていく。
人生は常に完結している。

人生の意味はあなたが自分自身に与えるものだ

一般的な意味はない。理不尽な戦火や天災に命を落とした子供に人生の意味など語れない。
しかし何も行動しないのは悲劇の肯定になる。われわれは坂道を転がり落ちる石ころではない。
カントのいう傾向性*4(欲望)に立ち向かわなければならない。石ころを上へと押し上げるのだ。
*4例えば皆に好かれたいために行う良い行いは傾向性(欲望)に支配されているため道徳性は損なわれる。真に道徳的な行いとは、それをすることが義務であるという考えから起こされた良い行動でなければならない。
→義務であるという考えは共同体感覚からくるものなのだろう。

では、どうすれば然るべき意味を与えられるか?
他者貢献である。
世界とはただ「わたし」によってしか変わり得ない。
わたしの力は計り知れないほどに大きい。

まとめ

今まで色々と読んできた本もあるので実践している事もあった。
その一方で新たに心に留めておきたいと思えるものもあった。
「課題の分離」である。共同体感覚ながら、の。
母である立場から、自己犠牲や諦めを受け入れて悟ったような気になっていたが違ったようだ。
母としての義務を果たしつつ偽善と感じない。高揚感を持ってこれを多方面へ活かしていく。
そして他人の目は気にせずに課題の分離を行なっていく。

*3操作しようとするな
これについては「影響力の武器[第三版]ーーーなぜ、人は動かされるのか ロバート・B・チャルディーニ (著) 社会行動研究会 (翻訳)」を読んでから考察したいと思う。

例えば

今度の休日、趣味・仕事半々の用事で出かけたいと申し出る。
旦那は付き合いたくないという。構わない。では子供を置いて私だけ一人で行くのは、と提案すると不機嫌に拒否された。拒否は構わないが乱暴な言葉遣いに諦めを覚えた
そこで旦那がいない日に予定を延期した。これば想定内のことで構わない。
後になり申し訳なさそうな顔をし、今度の休日付き合うといってきた。
しかし予定を延期したのでもう結構、と。
用事前日。今度は娘にごねられた。大人の用事に付き合いたくないと。
そこで私は6歳の娘に愚痴った。「お父さんもあなたもこの調子じゃ、お母さんはあと5年くらい行きたいところに行けないし会いたい人に会えない」。
娘「わかったよ!」ーーー娘よ、ありがとう。


諦めを覚えて何も言いたくなくなる。
これは目的論的に言えば「旦那と距離を置きたいから諦めの感情を作り出している」のか。
人生のタスクから逃げているのか。承認欲求を捨てて自己開示し、相手がどんな反応を取ろうとも受け入れる。その方が自由だし気持ちいい。シンプルで悩みがない。
今できることをしよう。
「予定のすり合わせをしているだけなのに、その言葉遣いが嫌だった」と瞬時に自分の感情を俯瞰的に見て表現できるようになろう。

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